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細川幽斎(ほそかわゆうさい)と刀ーー武道と歌道とかたき討ち

歌人・細川幽斎

 

 

はじめに


ご機嫌よう! 
漢検漢字教育サポーターで塾講師の有でございます。

本日10月4日は、
日本刀の日なのだそうです。

ということで、
今回は和歌に関係のある日本刀と、
その持ち主についてご紹介します。

 

細川幽斎(ほそかわゆうさい)


細川幽斎(ほそかわゆうさい)は、
細川家中興の祖といわれる人物です。
※細川家というのは、
細川護熙(ほそかわもりひろ)元首相のお家です。
小倉藩、そして後に熊本潘の藩主を務めた一族です。

 

幽斎(ゆうさい)は、
安土桃山時代の武将です。

武術、馬術、弓術に秀でた人物で、
足利義晴足利義輝織田信長豊臣秀吉徳川家康といった
そうそうたる面々に仕えました。

その一方で、文化人としても名高い幽斎(ゆうさい)。
茶道でおなじみの千利休と親交を結ぶほどの茶人であったほか、
和歌の道(歌道)においても一流の人でした。
武人であり文化人であったのです。

ここからは、
そんな幽斎(ゆうさい)が持っていた
二振りの刀をご紹介します。

 

古今伝授の太刀(こきんでんじゅのたち)

 

幽斎(ゆうさい)は歌人としても特別秀でており、
「古今伝授(こきんでんじゅ)」を受けています。

※「古今伝授(こきんでんじゅ)」…中世の学問や芸道では、
教えの最も重要な部分を、
秘伝として師匠から弟子へと伝承していました。
「古今伝授(こきんでんじゅ)」は、
古今和歌集』についての解釈の秘伝です。

 

関ヶ原の戦いでは、
徳川方についた幽斎(ゆうさい)。
関ヶ原の戦いの直前に石田三成に攻められ、
死を覚悟しなければならないほどに追いつめられました。

けれども時の天皇であった後陽成(ごようぜい)天皇は、
「古今伝授(こきんでんじゅ)」を有する幽斎(ゆうさい)が亡くなり

その教えが途絶えてしうことをおそれて、
使いを出して戦を止めさせたのです。

このとき現地におもむいた使いの一人に、
烏丸光広(からすまるみつひろ)という貴族がいました。
幽斎(ゆうさい)は光広(みつひろ)に古今伝授(こきんでんじゅ)を行いました。
その記念として、
行平(ゆきひら)という刀鍛冶(かたなかじ)が打った太刀を
光広(みつひろ)に送ります。

この太刀は「古今伝授の太刀(こきんでんじゅのたち)」と呼ばれ、
国宝として現代に伝わっています。

 

小夜左文字(さよさもんじ)

 

幽斎(ゆうさい)は、掛川城主の山内一豊(やまうちかずとよ)(後の土佐藩初代藩主)より、
一本の短刀を譲り受けました。

この短刀は、
左文字(さもんじ)という有名な刀鍛冶(かたなかじ)が打ったものです。
この左文字には、
息子が父親のかたき討ちをしたエピソードがありました。
それを気に入った幽斎(ゆうさい)が、
一豊にお願いをして譲ってもらったのです。

このエピソードと、
西行法師(さいぎょうほうし)の
「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山(年をとってから、また小夜の中山を越えるような旅ができるとは思わなかった。こうしてこの山を越えられるのも、命があるからこそだなあ)」
という和歌の一節から、
この左文字の刀を「小夜(さよ)」と名付けました。

「小夜左文字(さよさもんじ)」も、
「短刀 銘左  筑州住(名物 小夜左文字)」
として重要文化財として大切に扱われています。

ちなみにこの小夜左文字は、
後の時代に細川家が治める小倉(現福岡県)で飢饉が起こった際に、
人々の飢えを救うために近所の福岡藩に大名物の茶入れとともに売られました。

小夜左文字(さよさもんじ)はかたき討ちの刀であるとともに、
小倉の人々を救った刀でもあるのです。

 

おわりに

 

以上、細川幽斎(ほそかわゆうさい)と
彼が所有していた「古今伝授の太刀(こきんでんじゅのたち)」、「小夜左文字
をご紹介しました。

 読んでくださりありがとうございます。
 それでは今日はこの辺で。
 ご機嫌よう!