日本語小話

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契(ちぎ)りあらばーー平塚為広と大谷吉継

契りあらば

はじめに

 

ご機嫌よう!
漢検漢字教育サポーターで塾講師の有でございます。


今からおよそ400年前の9月15日に、
日本を真っ二つにした戦いの火蓋(ひぶた)が切られました。
慶長5年(1600)の9月15日午前8時。
関ケ原の戦い」が始まりまったのです。
(旧暦の9月15日ですので、今のカレンダーに直すと10月21になるそうです)

敵味方入り乱れての大混戦。
この戦いで多くの兵が命を落としました。

ところで、死を前にした人が残した短い詩的な文章を「辞世の句」といいます。
いわばその人の「遺言」です。
関ケ原の戦いにおいても、とある有名な辞世の句が詠まれました。
ということで、
今回は関ケ原の戦いで命を落とした二人の武将の辞世の句をご紹介します。

 

平塚為広(ひらつかためひろ)

 

平塚為広は、垂井城(現在の岐阜県にある城)の城主です。
力持ちで、薙刀の名手として知られています。

為広は大谷吉継(おおたによしつぐ)の部下でもあり、盟友でもありました。
吉継は、三成の大親友です。
石田三成徳川家康を攻めると言い出したとき、
為広は吉継ともに、「家康と戦っても勝ち目はない」と三成に忠告します。
けれども三成は、挙兵を決断します。
吉継と為広は自分たちに勝機はないと分かっていながらも、
三成のために西軍として関ケ原の戦いに参戦しました。

吉継は重い病を患っていました。
病状は思わしくなく、身動きもままならない状態でした。
そのため為広は吉継の近くに陣をはり、
大谷、平塚の両隊の指揮をとっていたともいわれています。

吉継と為広は、小早川秀秋の裏切りを見越して、
小早川隊に最も近い場所に陣をしいていました。
戦いが始まり、二人の予想通り西軍を裏切った秀秋が、
平塚隊、大谷隊へ攻め込みます。

平塚隊は応戦しますが、そこで他の部隊の裏切りにあい、
とうとう壊滅してしまいました。
為広は「もはやこれまで」と覚悟を決め、
次の歌を詠みます。

 

君がためすつる命は惜(お)しからじ終(つひ)にとまらぬ浮世(うきよ)と思へば

 

(あなたのためなら、命を捨てても惜しくはありません。どうせいつまでもこの世にいられ
るわけでもないのですから)

 

為広は近くにいた部下に命じて、
討ち取った敵の首といっしょに、この歌を吉継に送らせました。

そしてその後、為広は力尽きるそのときまで戦い抜きました。

 

大谷吉継(おおたによしつぐ)

 

大軍に攻められ、進退窮まった吉継のもとに、
為広からの使いがやってきました。
為広の辞世の句を詠んだ吉継は、
返歌(送られた歌へのお返しの歌)を詠みます。

 

契(ちぎ)りあらば六の巷(ちまた)にまて暫(しば)しおくれ先立つ事はありとも

 

(もし君と私との間に縁があるのならば、あの世の入口でしばらく待っていてくれないか。君の先になるか後になるかは分からないが、私もきっとそちらへ向かうから)

 

そして吉継も力の限り戦った後、
部下に介錯を頼んで自刃したのでした。

 

おわりに

 

文学的な評価はともかく、
この2首はシンプルながらも二人の生きざまがうかがえる良い歌です。
だからこそ今の時代にまで伝わっているのでしょう。

ということで、
本日は平塚為広と大谷吉継の辞世の句をご紹介しました。

読んでくださりありがとうございます。
それでは今日はこの辺で。
ご機嫌よう!