日本語小話

3分で読める日本語雑学

曼殊沙華ーーあっけらかんと

曼殊沙華

 

 

はじめに

 

ご機嫌よう!
漢検漢字教育サポーターで塾講師の有でございます。

お彼岸に入り、
今年も曼殊沙華が咲き始めました。
曼殊沙華には不吉なイメージもつきまとってはいますが、
やはり緑の中にあの鮮やかな赤色を見つけると、
ちょっぴりテンションが上がります。

ということで、
本日は曼殊沙華(彼岸花)を詠んだ俳句と短歌をご紹介します。
なお、それぞれの句、歌につけているのは私個人の感想です。
作品を読んだ後に、
ぜひあなたご自身の感想も考えてみてくださいね。

 

俳句

 

ひしひしと立つや墓場のまん珠さげ (正岡子規

 

曼殊沙華の茎って、
まっすぐに天に向かって伸びていますよね。
その様子を子規は「ひしひし」ととらえたのでしょうか。
墓地のさみしい感じと色鮮やかな曼殊沙華の対比が美しいです。

 

曼珠沙花あつけらかんと道の端 (夏目漱石

 

「あっけらかん」という表現がすごいです。
パンチが効いていますね。

私たちは勝手に曼殊沙華に対して不吉なイメージを持っています。
けれどもそんなことはお構いなしに、
今日も曼殊沙華は「あっけらかん」と、
青い空に向かって大きな花を咲かせています。

 

歩きつづける彼岸花咲きつづける(種田山頭火

 

曼殊沙華の群生の中を、
山頭火は歩いていたのでしょうか。
多くの曼殊沙華の中を、
独りぼっちで歩く山頭火
シチュエーションだけ見れば物悲しい句のようですが、
「歩く」ではなく、
「歩き続ける」としたところに、悲壮な力強さを感じます。
やはり放浪の人は一味違いますね。

 

短歌

 

曼珠沙華か黒き土に頭あぐ雨やみ空のすめる夕べに(木下利玄)

 

曼殊沙華の持つ不吉なイメージとは裏腹に、
なんとも爽やかな歌です。
「頭あぐ」は、「頭を上げている」という意味ですね。
曼殊沙華の立ち姿にぴったりの表現ではないでしょうか。

 

曼珠沙華 一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径(みち)(木下利玄)

 

秋の日差しを浴びる、燃えるように赤い曼殊沙華の一群。
そしてその横を、人通りのない小道が続いている。
前半に「燃える」「つよし」と鮮烈な印象の言葉が続くので、
最後の「しづかなる」が余計に際立ちます。

もう一つのこの句の素敵ポイントは、
ピントが曼殊沙華に合っているところです。
私なら「道のわきに曼殊沙華が咲いている」と平凡な表現をしてしまいますが、
利玄は真逆の表現をしています。
彼の目には、
「曼殊沙華のそばを小道が通っている」ように映ったようです。
同じ風景でも、
ピントの合わせ方によって見え方が変わるのですね。

 

おわりに

以上、
曼殊沙華(彼岸花)を詠んだ俳句と短歌をご紹介しました。

読んでくださりありがとうございます。
それでは今日はこの辺で。
ご機嫌よう!

 


山頭火句集 (ちくま文庫) [ 種田山頭火 ]

中秋の名月――この月の月

中秋の名月

 

 

はじめに

 

ご機嫌よう!
漢検漢字教育サポーターで塾講師の有でございます。

昨夜のお月さまはまんまるで、明るくてとてもきれいでしたね。

十五夜の前日の月を「待宵(まつよい)の月」といいます。
満月が昇る翌日の「宵」を楽しみに「待つ」ことから
このように呼ばれます。

そして今夜は十五夜
きっと今日のお月さまも美しいでしょうね。

中国人も日本人も、昔から月
―――特に中秋の月を愛でる習慣がありました。

ということで、
今回は月に関する詩歌を3つご紹介します。

 

中秋の月

 

まずは中国の漢詩から。

 

「中秋の月」蘇軾(そしょく)

 

暮雲収め尽くして清寒溢れ
銀漢 声無く 玉盤を転ず
此の生 此の夜 長くは好からず
明月 明年 何れの処にて看ん

 

(夕暮れ。
雲がすっかりなくなって、
澄み切ってひんやりとした空気が満ちていて、
銀河には宝石でできたお盆のような中秋の月が
静かに昇ってきた。
この楽しい人生も、
この楽しい夜も
長くは続かない。
この名月を、
来年はいったいどこで見るのだろうか)

 

しんと静まり返った月夜の美しさ。
その美しさに思わずセンチメンタルになってしまったのでしょうか。
描写が美しいです。

 

この月の月

 


お次は日本の和歌です。

 

月月に月見る月は多けれど月見る月はこの月の月(よみ人知らず)

(毎月毎月、
お月さまをみることができる月は多いけれども、
鑑賞する価値のある月は/月を鑑賞するのにぴったりな月は
今月の月です/この月が出ている今月です)

 

解釈がいろいろと分かれるこの歌。
声に出して読んでみると軽快なリズムがいっそう楽しめるので、
ぜひお試しあれ。

 

名月を

 

最後は、小林一茶の俳句。

 

名月をとってくれろと泣く子かな(小林一茶

(「あのきれいなお月さまをとってよ」と
子どもがねだって泣いているよ)

 

「かわいい」の一言に尽きます。
子どもの無邪気さがかわいいです。
お父さんも思わず取ってあげたくなったことでしょう。

 

おわりに

 

以上、
中秋の名月を読んだ詩歌を3つご紹介しました。
今夜はぜひ空をながめて、
十五夜お月さまを見てみてくださいね。


読んでくださりありがとうございます。
それでは今日はこの辺で。
ご機嫌よう!

 

 


小林一茶 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫) [ 大谷 弘至 ]


一茶句集 現代語訳付き (角川ソフィア文庫) [ 小林 一茶 ]

「水は方円(ほうえん)の器(うつわ)に随(したが)う」――水はどんな形にもなれる

水は方円の器に随う

 

 

はじめに

 

ご機嫌よう!
漢検漢字教育サポーターで塾講師の有でございます。

 

一昨日、昨日と、テレビで
「『鬼滅の刃』竈門炭治郎 立志編 特別編集版」
を見ました。

結末を知っていながらも、
つい見入ってしまいました。
やっぱり『鬼滅の刃』はおもしろいですね。

 

鬼滅の刃」は、
作画だけでなく、
言葉の使い方も素晴らしい作品です。

作中には印象的なセリフが山のようにあります。

 

ということで、
今日は「鬼滅の刃『鼓屋敷編』」に出てきたセリフに
ちなんだ言葉をご紹介します。

※ここから先はネタバレが含まれます。
 お気をつけください。

 

「水は方円(ほうえん)の器(うつわ)に随(したが)う」

 

「鼓屋敷編」のクライマックス。

響凱(きょうがい)という鬼に追いつめられた炭治郎は、
師である鱗滝(うろこだき)さんの教えを思い返します。

鱗滝さんはかつて、
「水の呼吸」について炭治郎に次のように語っていました。

 

水はどんな形にもなれる 

升に入れは四角 

瓶に入れば丸く

時には岩すら砕いて

どこまでも流れてゆく

 

つまり、
水のような変幻自在さ、
そして柔軟さが「水の呼吸」のキモということです。

 

ところで、
水は昔から「人のありよう」のたとえに使われてきました。

 

「水は方円(ほうえん)の器(うつわ)に随(したが)う」

 

古代中国の思想書韓非子』にも、
孔子の言葉としてこのフレーズが記されています。

 

水は、器の形によって方形(四角形)にも円形にもなる。

同じように、
人も付き合う相手や身を置く環境によって良くも悪くもなる、
という意味です。

 

孔子は、
「人間の善悪はリーダーの善悪に左右されるんだ」
という持論の説明として、
このように語りました。

現代ではリーダー論ではなく、
もっぱら「人は友達や環境次第で良くも悪くもなる」
という方の意味で使われています。

 

そう言われてみれば、
「朱に交われば赤くなる」ということ、
実際にあるような気がしませんか?

 

逆に言うと、
理想の自分になりたいなら、
自分が理想とするような人と付き合って、
自分が理想とする環境に飛び込めばいいのかもしれません。
……それが一番難しいことですけれど。

 

余談ですが、
「人は変わる」という考え方の真逆の言葉に、
「三つ子の魂百まで」というものがあります。

人はそうそう変わらないよ、という意味です。

ちなみに英語では、
“The child is father to the man.”(子どもは大人のもと)
というそうです。

 

結局のところ
人が変われるのか変われないのかは分かりませんが、
できることなら良い自分でありたいものです。

 

おわりに

 

以上、
「水は方円(ほうえん)の器(うつわ)に随(したが)う」
という言葉をご紹介しました。

 

読んでくださりありがとうございます。
それでは今日はこの辺で。
ご機嫌よう!



糸瓜(へちま)忌ーー近代文学の革命家

糸瓜忌

 

 

はじめに

 

ご機嫌よう!
漢検漢字教育サポーターで塾講師の有でございます。

本日9月19日は、明治期の俳人歌人である
正岡子規(まさおかしき)が亡くなった日です。

ということで、
今回は子規忌
別名糸瓜(へちま)忌についてご紹介します。

 

正岡子規とは

 

正岡子規は、
慶応3年(1867)に伊予の国(愛媛県)の松山に生まれました。

新しい時代の俳句、短歌を目指して創作活動を行った子規。
そんな子規のモットーは、
「見たものをありのままに写し取る(写生する)」ということでした。

この子規の姿勢は、
俳句界では高浜虚子河東碧梧桐
短歌界では伊藤左千夫長塚節
散文界では夏目漱石鈴木三重吉といった
そうそうたるメンバーに影響を与えます。

結核についで脊椎カリエスという病気をわずらった子規は、
ほとんど病床で過ごすことになります。
けれども、
壮絶な痛みに耐えながら創作活動を続けました。

7年間病魔と戦い続けた子規は、
明治35年(1902)9月19日、
東京の自宅で子規は静かに息を引き取りました。
34歳。
早すぎる死でした。

 

糸瓜(へちま)

 

子規の家の庭には、
糸瓜(へちま)が植えられていました。

死の前日、
子規はその糸瓜(へちま)を俳句にしています。

 

糸瓜咲(へちまさい)て痰(たん)のつまりし仏かな

(ヘチマの花が咲いている。
その前に、たんのつまった私の遺体があるよ)

 

※当時はヘチマの茎から採れる水が、
たんきりの薬になるといわれていました。

 

痰一斗(たんいっと)糸瓜(へちま)の水も間にあはず
(もう自力でたんもきれなくなった。
たんきりの薬になるヘチマ水を使ったとしても、
間に合わず私は亡くなってしまう)

 

をととひのへちまの水も取らざりき
(おとといは旧暦の8月15日だった。
十五夜に採ると良いといわれているヘチマ水も、
採らなかった)

 

この三句が「絶筆三句」といわれる
子規の辞世の句です。

これらの句から、
子規の命日を「糸瓜忌」というようになりました。

 

糸瓜忌を詠んだ俳句

 

子規門下の双璧といわれた、
高浜虚子(たかはまきょし)と河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)。
この二人が子規を思って詠んだ句をご紹介します。

 

子規逝くや十七日の月明に(高浜虚子
(子規は亡くなってしまったよ。
陰暦8月17日の月明かりのなか)

 

糸瓜忌や叱られし声の耳にあり(河東碧梧桐
(ああ、今日は糸瓜忌がやってきたなあ。
私を叱った子規の声がまだ耳に残っている)

 

子規の短歌

 

ずっと俳句の話ばかりでしたので、
最後に私が大好きな子規の短歌をご紹介します。

 

真砂(まさご)なす数なき星の其中(そのなか)に吾(われ)にて向ひて光る星あり
(小さな砂の粒のような星が、
夜空でたくさん光っている。
その中にひとつ、
私に向かって光っている星がある)

 

おわりに

 

以上、
糸瓜忌(へちまき)に関するお話でした。

読んでくださりありがとうございます。
それでは今日はこの辺で。
ご機嫌よう!

 

蘆花(ろか)忌ーーハンカチを振ってさようなら

蘆花忌

 

 

はじめに

 

ご機嫌よう!
漢検漢字教育サポーターで塾講師の有でございます。

本日9月18日は、明治、大正期の作家、
徳冨蘆花(とくとみろか)が亡くなった日です。

ということで、今回は蘆花をテーマに書こうと思います。

 

別れのハンカチ

 

別れのシーンをイメージするとき、
まず最初に思い浮かべる小道具が
ハンカチではないでしょうか。

遠くに行く男性を、女性がハンカチを振って見送る。

いささか古典的ではありますが、
古い映画などを見ているとよく出くわす場面です。

日本で初めてこのシステムを採用したのが、
蘆花だという話があります。

 

蘆花の小説に
『不如帰(ほととぎす/ふじょき)』という作品があります。

ざっくり言いますと、
幸福な結婚生活を送っていたヒロインが、
結核にかかったことで離婚させられ、
夫を愛しながら失意のうちに亡くなるというストーリーです。

 

明治屈指のベストセラーとなったこの小説のなかに、
次のような場面があります。

 

「それじゃばあや、奥様を頼んだぞ。
――浪さん、行って来るよ」

「早く帰ってちょうだいな」

うなずきて、
武男は僕が照らせる提燈の光を踏みつつ門を出いでて十数歩、
ふりかえり見れば、
浪子は白き肩掛けを打ちきて、
いくと門にたたずみ、
ハンケチを打ちふりつつ

「あなた、早く帰ってちょうだいな」

「すぐ帰って来る。
――浪さん、夜気やきにうたれるといかん、
早くはいンなさい!」

 

※改行の位置は改編しています

 

戦争にいく夫を、
ヒロイン(浪子)がハンカチを振って見送るこのシーン。

一説には、
これが日本初のハンカチを振る別れのシーンだそうです。

 

他にもヒロインがダイヤの結婚指輪をしていたりして、
なかなか小道具も興味深い作品です。

 

また、作中でヒロインが発するセリフにも有名なものがあります。

 

あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 
生きたいわ! 
千年も万年も生きたいわ!

※改行の位置は改編しています

 

このヒロインの悲痛な叫びが、
多くの人の胸をうちました。

 

『不如帰』は長編ですし、
言葉が古いので読むのが少し大変ですが、
とてもおもしろいのでおすすめです。

 

謀叛論(むほんろん)

 

最後に、
せっかくですので蘆花の名言を一つご紹介します。

 

明治時代に、大逆事件という事件がありました。
明治天皇を暗殺する計画をたてた」という容疑で、
12人の社会主義者が証拠もないまま処刑されたのです。

 

この出来事を受け、
第一高等学校(現在の東大)の生徒たちに向けた講演会のなかで
蘆花は次のように語りました。

 

諸君、
謀叛(むほん)を恐れてはならぬ。
謀叛(むほん)人を恐れてはならぬ。
自ら謀叛(むほん)人となるを恐れてはならぬ。
新しいものは常に謀叛(むほん)である。

 

(中略)

 

諸君、
我々は生きねばならぬ、
生きるために常に謀叛(むほん)しなければならぬ、
自己に対して、
また周囲に対して。

 

※改行の位置は改編しています

 

 

変化を求めて立ちあがることの重要さ、
そして自分ををより良い方に変えていくことの重要さを
蘆花はガツンとパワーのある言葉で説きました。

 

おわりに

 

以上、
蘆花に関するエピソードを二つご紹介しました。

 

読んでくださりありがとうございます。
それでは今日はこの辺で。
ご機嫌よう!

 

千本桜――千本の桜?

千本桜

 

はじめに

 

ご機嫌よう!

漢検漢字教育サポーターで塾講師の有でございます。

 

今日2021年9月17日は、

ボカロ曲(VOCALOIDの楽曲)「千本桜」投稿10周年の記念日だそうです。

2011年のこの日、黒うさP氏がニコニコ動画でこの曲を公開なさいました。

今やボカロといったらこの曲といっても過言ではないほど、有名になりました。

ヨナ抜き音階とロックを融合させたメロディーが印象的なこの曲。

小林幸子さんが歌われたり、歌舞伎とコラボしたりと、
その人気は止まることを知りません。

 

ということで、
本日はこの「千本桜」をテーマに書こうと思います。

 

千本桜

 

「千本」は、実際に1000という数字を指しているのではありません。
「たくさんの」という意味です。

つまり「千本桜」は「たくさんの桜」という意味になります。

 

また、「千本桜」は「たくさんの桜が生えている場所」としても使われます。

有名なのは、奈良の吉野山でしょうか。

吉野山にはなんと千を軽く超えて、

3万本もの桜が植えられていると言われています。
まさかの逆サバです。

この吉野に咲く桜を「吉野桜」といったりもします。

昔の人たちは、
私たちが桜と聞いてイメージするソメイヨシノとはまた違った風情の桜を愛していました。

 

ソメイヨシノを「吉野桜」と言ったりもしますが、
ここで書いた「吉野桜」は別物です。

吉野山に咲く吉野桜はシロヤマザクラが多いそうです。

 

義経千本桜

 

吉野山は数々のエピソードが伝わっている場所です。

そのなかでも有名なのが、源義経のエピソードではないでしょうか。

この話は脚色され、浄瑠璃や歌舞伎にもなっています。

それが「義経千本桜」です。

 

その古典歌舞伎「義経千本桜」とボカロ曲の「千本桜」をコラボレーションさせたのが、

あの「超歌舞伎 今昔饗宴千本桜(はなくらべせんぼんざくら)」です。

簡単にご説明すると、
歌舞伎の舞台にバーチャルなミクちゃんとKAITOくん、そして背景を融合させた演目です。

私はテレビでこれを見たのですが、
一言でいうと「圧巻」でした。

本当にミクちゃんやKAITOくんたちが舞台の上にいたのです。
動きもなめらかで違和感なく存在していました。

生身の役者さんの繊細な演技とバーチャルで作り出した映像がマッチしていて、
引き込まれてしまいました。

千本桜の曲に合わせたパフォーマンスも最高でした。

もちろん終幕(さいご)は……。

 

花盛り

 

話を「千本桜」に戻します。

「千本桜」は、吉野山の花盛りの様子をイメージさせる言葉でもあります。

ボカロ曲「千本桜」のPVを見てみると、
大正ロマンを感じさせる映像が印象的です。

もしかすると、近代化を果たしまさに「花盛り」の時期を迎えた日本を、
「千本桜」が象徴しているのかもしれませんね。



おわりに

 

以上、「千本桜」という言葉についてご紹介しました。

ぜひご自身の「千本桜」のイメージを頭に思い浮かべながら、
「千本桜」の曲を聞いてみてください。

 

読んでくださりありがとうございます。
それでは今日はこの辺で。
ご機嫌よう!

 

虫集く――虫が……?

虫集く

 

はじめに


ご機嫌よう!
漢検漢字教育サポーターで塾講師の有でございます。

リンリン、コロコロ、虫の音が聞こえる時季になりました。
少しずつ涼しくもなり、秋らしくなってきましたね。

夏の蝉の「今日も力いっぱい生きてるぜ!」と主張の強い鳴き声に比べて、
秋の虫たちの鳴き声はなんだかアンニュイだったり物悲しそうに聞こえます。
不思議なものです。

ということで、
今日はこの虫の鳴き声に関する秋の言葉をご紹介します。

 

虫集く

 

「虫集く」と書いて、「むしすだく」と読みます。

「集(すだ)く」は、古い言葉で、「集まる」という意味です。
もともとは字の通り「秋の虫が集まること」を表していたようですが、
時代が下るにつれて「秋の虫が集まって鳴くこと」を表すようになったそうです。
今でも秋の季語として使われます。

例えば高浜虚子は次のように詠んでいます。

 

松虫のものがたりあり虫すだく

 

哀鳴啾啾(あいめいしゅうしゅう)

 

秋がもっと深まってくると、
虫だけではなく鳥の声も物悲しく聞こえます。

悲しげな虫や鳥の鳴き声を表す四字熟語があります。

「哀鳴啾啾(あいめいしゅうしゅう)」

「哀」は、「悲しい」。
「鳴」は、そのまま「鳴く」。
「啾啾(しゅうしゅう)」は、「小声で力なく泣く様子」。

つまり「哀鳴啾啾(あいめいしゅうしゅう)」は、
「鳥や虫が悲しそうに鳴くこと」という意味です。
(鳥の話はまた別の機会に)


落ち葉など目で見る秋も物悲しいですが、
どうやら耳で感じる秋も同じであるようです。

 

おわりに 

 

ということで、
本日は虫の声に関する言葉を二つご紹介しました。
今夜はぜひ集(すだ)く虫の声に耳を傾けてみてください。

読んでくださりありがとうございます。
それでは今日はこの辺で。
ご機嫌よう!